第52章 甘い取引
彼が大好きだった。赤い赤い、赤い人。
優しくて格好良くて、嫉妬する気も起きないくらいの人の良さ。もうどうしようもないくらいに好きだった。
落とし物をして、声を掛けてくれた。それだけで死んじゃうかと思うほど嬉しくて。
「あんたの?」
「あっはい!ありがとうござい…ます…」
「いや。良かったな、悪い奴に拾われなくて」
彼の大きな手が持っているのは私の財布。つい1時間くらい前に落として、必死で探していた所だった。
「ほんとに…良かったです。カードも全部入ってたので」
「ん。じゃ、もう落とさないように気をつけな」
太陽みたいに笑った彼は、財布を私の手に渡すと身を翻しかけた。
重みで少し沈む私の手。
行ってしまう。だいすきなひと。
でもここで会えて、声をかけて貰って良かった。奇跡みたいだ。
いつもなら声を掛けられるどころか声を掛ける事もできないし、ただ遠くから憧れの視線を投げるだけだったのだから。
財布をぎゅっと胸に抱いて、彼のぬくもりを探る。
少し距離が縮まったみたいで。
嬉しい。
満足な、はずだけど。
この奇跡は、私の一言でもっと輝く。
「あのっ…」
まるで痺れたように唇が動かない。
不思議そうに振り返った彼。ああ、私は今、すごく困った顔をしているんだろう。
何か言いたい。いや、何を言いたいのかはわかっている。
一緒にお茶をとか、お礼をしたいから連絡先を教えて欲しいとか、いろいろ、いろいろ言いたい。
好きだと言いたい。
間があったのは、ほんの数秒かもしれない。
でも私には長かった。
赤い彼は可笑しそうに笑って言う。
「すげー困った顔」
「あっやっすみませ…!」
「腹減ってねーか?俺最近すっげー美味いパフェ出す店見つけたんだけどさ、俺の周り甘いもん嫌いな奴ばっかで…」
「じゃ…じゃあ……良かったら、お礼に奢らせて、くだ、さい…」
語尾が消えていく。顔が俯いていく。
だけど、足音が近付いて近付いて、少しだけ視線を上げた私の目に大好きなあの笑顔。
「じゃ、せっかくだからよろしく」
「…はいっ」
私は財布を鞄に入れると、夕日に紅く染まる彼の後を追った。
2009/10/07