第8章 手を
夏川莉香が氷帝学園を去って、一週間。
まだところどころで噂は飛び交っているものの、テニス部は落ち着きを取り戻していた。
跡部史佳は二ヶ月前と同じように、笑顔でテニス部を支えていた。
たまに準レギュラー・平部員のコートにも顔を出し、システムの改善に尽力している。
莉香のことでしばらくショックを受けていた他の部員たちも、大会前だと跡部に一喝されたことで目が覚めたのか、改めて練習に力を入れるようになった。
そして。
「……史佳」
「はい、何でしょうか忍足先輩。ドリンクですか?」
忍足が気まずそうに史佳に話しかける。史佳は変わらない笑顔でそれを受け入れる。
二ヶ月前と変わったのは、彼らの関係だけだった。
「あんな、」
「史佳」
「え?あ、日吉君。ごめんね、今忍足先輩と話してるから。先輩、何ですか?」
「……いや、ドリンク、もらってくわ」
「はい。今日のは自信作ですよ!」
何度か唇を噛むようような仕草を繰り返してから、忍足はふっと史佳から視線を外した。
史佳は笑顔のままだった。
忍足は気付いていた。彼女の自分を見る目から、『好き』という感情が消え失せていることに。
二ヶ月前までは、自分を見る目が、声が、「侑先輩が好き」と告げてくれていた。
自分はそれがくすぐったくて嬉しくて、その度に改めて彼女を愛しいと思っていた。
なぜ、一時でも莉香を好きだなんて思ったのか。それは彼にも分からない。
しかし、今自分が彼女に感じる「好き」の方が、莉香に対する「好き」よりも、もっとずっと尊く綺麗な「好き」であることは確信できた。
けれど、もう、遅いのだと。
もう、取り返しがつかないのだと。
聡い彼は、気付いてしまっていた。
もう一度繋ぐことは、きっともう、無理なのだ。