第1章 『言ったもん勝ち』
氷上の妖精たち。
彼らの足元には、鋭い刃の付いた靴。
その靴へ一心に視線を注ぐ女性。
「……滑りが?」
メモ帳とペン、PCを傍らに、リンクを滑るスケート選手たちへと視線を滑らせる。
「甘いわ」
ぶつぶつと独り言。
彼女はスケートシューズのブレードの研ぎ師。
今日は最終調整のため、リンクに出向いて来ていた。
彼女が見つめていたリンクから戻ってきたひとりの選手。
このスケート界じゃ知らない者はいない。
帝王、プリンス。色々な呼び名を持つ男。ヴィクトル・ニキフォロフ。
「やぁ。まってたよれん」
「お久しぶりです。ニキフォロフさん」
「堅いなぁ。気軽にヴィクトルって呼んでっていつも言ってるじゃないか」
「お客様ですから。靴、貸してください」
リンク横に簡単に設営されている、研ぎ師れんの作業場。
その場で靴を脱がせ、器具を手に取り、ヴィクトルのブレードを調節していく。
「ねぇ、いつになったら俺専属の研ぎ師になってくれるの?」
「それはいつもお断りしているはずです。私は、誰かひとりの靴を見たいわけじゃありませんから」
「もう。じゃあ、俺と食事には行ってくれる?」
「仕事が終われば」
つんけんした、一見不愛想にも見える彼女。その手つきは女性的で、エッジに触れる彼女の指先は細く長い。
ヴィクトルと彼女の付き合いは長い。歳も近く、何度か食事もした仲だ。しかしそこまで。
「あ! れんさん!」
「こんにちは勝生さん。お直しですか?」
「うん。おねがいします」
ちょっと待っていてください。とどこか仲が良さそうで、距離の近いれんと勇利。
おなじ日本人同士だから? ヴィクトルは自分の教え子でもある勇利に少しだけ眉を潜める。
「ユウリー? 邪魔しに来たの?」
「邪魔だなんて。れんさんの研ぎ、早めに声をかけないと混むからだよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
時折見る勇利の悪い顔だ。
確信犯でしかない。とヴィクトルは距離の近い二人の間に割って入る。