第8章 私が髪を切る理由(幸村)
〈何とも思ってねぇから〉
そう続けようとしたが、
込み上げてくる幸村自身にもわからない感情に言葉が遮られる。
この言葉を言ってはいけない…
本能が危険信号を出している。
でも、自分がこれ以上傷つかないためにはどうすればいいのか、
他に良い案も浮かばない。
そんなこんな幸村が口籠っていると、
視界で何かが光った。
光の方に目を向ければ、愛が幸村を真っ直ぐ見据え、
大粒の涙をポロポロと流し、必死に何かを堪えている。
(この顔は…)
幸村には見覚えのある顔。
あの日、未来に帰ることを隠そうと、
自分を愛していないと嘘をついた愛の顔が
一瞬で思い出された。
(どうしてそんな顔してる?嘘つくのは俺の方…)
『おい、外出るぞ。他の奴らに見られるだろ…』
愛が泣いているという事実にハッとし、
純粋に、他の男にこんな顔を見せたくない…
という思いでしかなかった。
だが、愛はゆっくり首を振り、
「もう、わかったから。ごめんね、私鈍感で。
幸村は、逢いたい人のところに行っていいよ。
私は、もう少しここに居るから…」
そう言うと涙を拭い、目の前の磯辺餅を食べ始める。
(涙の味しかしない…)
そう思うと、また込みあげそうな涙を必死に堪え、
愛は食べる事に集中した。
(お願い…早く行って。決心が鈍ってしまう…)
そう思っていると、急に手首をガシっと掴まれる。
驚いて顔をあげると、なぜか少し目元を赧らめた幸村が
立ち上がって愛の手首を掴んでいた。
「ん?!…むぐっ」
『食いながらでいいから来いっ』
そう言うと、代金を卓上に置く。
『おやじ、ここに代金置いとくからな!』
そう言うと掴んでいた手首を離し、
愛の荷物を持つ。
空いた手で、今度は愛の手を優しく掴むと、
『ほら、早く立て』
そう言って、まだモグモグしている愛を
強引に立たせて店を出る。
「ちょっと、幸村、どこ行くの?」
やっと餅を飲み込んだ愛が、横から顔を覗き込むように訊く。
幸村は真っ直ぐ前を向いたまま、ずんずん進んでいった。
漸く足が止まったのは、安土の街が一望できる小高い丘の上に着いてからだった。