第1章 かりそめの遊艶楼
❦ 櫻井Side ❦
「翔、これから会社で…」
「ごめん父さん!寄るとこあるから!」
「なっ…待ちなさい!」
空港を出てすぐ、父の制止を振り切ってタクシーに飛び乗った
「っ早く!とりあえず出しちゃってください!」
「は、はいっ」
戸惑う運転手を煽って車を出してもらうと
車内にも関わらず父の声が聞こえてきて…
それに恐る恐る振り返る
「うわ…真っ赤…」
後方の窓ガラスから見た、小さくなっていく父の顔は鬼のようだった
幹部達がまぁまぁと言うように手を揺らし、宥めている
その様子も次第に見えなくなっていって
前方に身体を向き直した
「…ごめん…でも…約束だから」
大切な人との…
一旦家に帰り、来た楼の中はいやに静かだった
出迎えた番頭だって微妙に暗い感じで
「なんか…変だな…」
そう思わずにはいられなかった
もしかしたら
賑やかだったあっちの暮らしに慣れすぎて、感覚がずれただけなのかもしれないけど…
「おっと…これから会うってのに
皺なんか寄せてたらダメだよな…」
考え事するとどうしても眉の間が…
指で擦りながら和也の部屋まで続く廊下を歩いていった
「和也、入るよ」
閉めた襖の前から声を掛けるけど、返事がない
あれ…間違ってないよな
確認してみるけど、部屋子が連れてきてくれるんだから間違うはずない
ここは正真正銘、蜩の間
「…聞こえてないのか」
もしかしたら、喜んで飛び付いて来てくれるんじゃないかって…
淡い期待を膨らませてたけど
んなことないか…
大人しく襖を開けていくと
居間に座る和也が一点に自分の両手を見つめていた
「…和也?」
聞こえる距離に行っても、隣に行っても反応がない
なんで…どうした…
「かず…」
こんなに近いのに…聞こえてるはずなのに…
ピクリとも動かない
「…っ…和也…」
持ってた楽譜を投げ捨てて、脱け殻のようなその子を強く抱き締めた
理由は分からないけど…身体はここにあるけど…
なんだこれ、怖い
「和也…何があった…っ戻ってこい…」
そこにない和也の魂が甦るよう何度も何度も名前を呼んで、必死に背中を擦った