第36章 鬼喰い
「──ぁ」
気道を止められたはずなのに、無意識に零れた声が出る。
体に決定的な痛みはない。
それが己の血飛沫ではないことと、視界で泳ぐ黒い影がどこかの光景と重なる。
あの時、初めて目の当たりにしたのだ。
背筋を震わせるような影が、人々を守る為にあるということを。
「ッ!?」
「なんッだァ!?」
高い宙吊りにあっていた村田の視点からは、全てが見下ろせた。
見れば同胞を襲っていた大蛇のような腕も、頸を斬り落とされたかのように手首を失くし血飛沫を上げている。
村田の頸を締めていた腕と同じように。
発端である人物は、明るい月夜の中でただ一人、動揺を見せずに立っていた。
この場の誰より体の線が細い。女だ。
顔には黒い狐面を付けている。
面の耳と目に隈取りのように縁られた、鮮やかな赤を映えさせて。
同じく黒を基調としたモダン柄の着物に、臙脂色の袴。
それは以前にも見た彼女の一張羅だ。
「…彩千代…」
狐面で表情は見えなくても、声を聴かなくても、一目でわかった。
あの時と同じ光景だ。
初めてその目を見て、言葉を交わしたあの日も、同じように彼女の影は己を守ってくれたのだから。
「コイツ…っ新たな鬼狩りか!?」
「いやコイツは…ッ」
「鬼じゃァねぇか…!」
ずぅるり、と蛇が脱皮するかのように切断された腕が再生する。
日輪刀を持っていない。隊服も着ていない。
それよりも彼女の周りを覆うように漂う影が、異端であることを突き付けてくる。
そんな芸当ができるのは同じ鬼以外にはいない。
「此処は俺達の縄張りだッ!」
「余所者が横取りするんじゃねェよ!」
牙を剥く鬼達に、静かに狐面が表を上げる。
くん、と獣のように伸びた鼻先を軽く退く。
「朔」
面の中で告げた声は、荒げてもいないのに不思議と村田の耳にも届いた。
その呼び名に、周りを漂っていた影が波のように反応を示す。
どぷりと黒い波間から現れたのは、巨大な土佐金魚。
「皆を」
指示が下ると同時に、影の金魚は夜空を泳いだ。