第31章 キューピッドは語る Side:M <豊臣秀吉>
この間までの残暑が嘘のように、今日の風は秋の気配をまとっている。太陽が低くなりだしたこの時間においては、もはや肌を擦り合わせたくなるほどの冷たさだ。
作戦決行のその場所に一番乗りした俺は、廊下の縁側から小さな庭へと降り立った。そしてそのまま、塀近くの植栽に身を隠す。
この庭で騒動が起これば、それに面して伸びている廊下からは丸見えだ。加えて、ここは天守から戻る者であれば必ず通る場所でもある。
「…来たな」
顔に不満を出さないように気を付けているのだろう。妙に硬い表情をした家康が廊下をやってきて、俺の姿を探している。
片手を上げて振ってやれば、小さく一つ頷くのが見えた。ゆっくりと縁側に腰を下ろして、その時が来るのを静かに待つ。
どれくらいそうしていただろう。外気が少しだけ体を冷やし始めた頃。
縁側に腰かけてぼうっとしていた家康が突如、立ち上がった。建物から離れている俺の耳にも、足音が近づいてきているのが、少し遅れて聞こえて来る。
秀吉が先にここを通ってしまったら、作戦は中止だが…。
「あ、家康っ」
「…さとみ」
はつらつとした声が響いて、俺の杞憂を消し去った。ここから見える家康の顔が微かに不本意そうに歪んだのは、俺の見間違いではないだろう。
「何か用事?」
「とりあえず…こっち、来て」
「うん」
庭で待つ家康の元へ、何の疑問もないような顔のさとみが足を踏み出したのと同時に、廊下の逆側から新たな足音が響いてくる。間違いない、秀吉だ。
完璧すぎるな。これなら失敗などしようもない。もっと面白い事を期待していたんだが…こうなったら、家康の頑張りを眺めて楽しむことにしようか。
安堵と落胆が入り混じった息を吐いた俺の目の前で、それは起こった。
「家康…きゃっ」
「ちょ…ッ」
あの娘は小走りに家康に駆け寄ろうとして、勢いよく足を滑らせた。少なくとも俺には、何もないように見える廊下の床で。
焦った家康が咄嗟に腕を伸ばして、落ちてくるさとみを抱き留めて。その勢いを殺すことが出来ずにくるりと回転し、秀吉に背中を向けた。
「えへへ、ごめん…」
照れくさそうに、家康の腕の中で笑うさとみ以外の時が、ぴしりと音を立てて停止する。