第1章 水仙
気が付くと、周りはその花の香りでいっぱいだった。
いつから匂い立っていたのか、ただ黙々と歩んでいた為に、気付くのが遅れた。
陽射しが暖かい。一面に雪中花が咲き乱れている。
明るい花弁を細い茎でもたげ、春らしい清々するような芳香を放つその花は、苦い思いを胸に落とす。
違う。こういう匂いではない。
煙草草が煙る香り。栗。蓬と松明花。そして血の匂い。
この腕の中に薄い体と共に二度わだかまったあの匂い。
風が吹いて更に花が匂う。
この花じゃない。だが、この花だ。
あの女はまだ首元に鈍色の刻印を繋いでいるだろうか。
自己愛の意味を持ち、その身に毒を飼う雪中花。
水仙。
この花の佇まいはあの女には似合わない。しかしあの女を思わせる。
己からこの花にあの女の記憶を縛りつけてしまった。印を付けて縛りつけたつもりでいたが、本当に縛られたのは他でもない自分ではないか。
鬼鮫にしか外せない筈のあの刻印は、約束通り誰に触れられる事なく今もあの女の肌身にあるだろうか。それも確められないまま春が来た。
皆が桜に目を奪われるこの時節、鬼鮫は一人水仙を見る。
また逃げ出した牡蠣殻、あらぬ花にさえ牡蠣殻を見る自分、時が巡る、それだけの理由で意味もなく緩む春という季節、同様に行く冬、消える雪、萌えいづる草木、綻び開く花。
嘲笑いながら、鬼鮫は怒り続けている。