第8章 小さな小さな披露宴
仕事を終わらせて
さっきの場所に戻ってみると、
彼女は、そこにいた。
コーヒーを飲みながらぼんやり座っている。
もしかしたら、
俺を待っていたのではなく、
動く気力がなかっただけかもしれないけど。
『お待たせしました。
とりあえず、ここ、出ましょ。』
荷物をもって俺が先に歩き、
彼女は黙って後ろからついてくる。
車のエンジンをかけると、
彼女が口を開いた。
『私…知らない方の車に乗るなんて、
バカですよね…』
『じゃ、自己紹介しましょうか。
俺、ここの病院で作業療法士やってます、
松川一静です。』
『あら、あなたが一静さん…』
『え?俺のこと、知ってるんですか?』
『ええ、
亡くなった主人がリハビリでお世話になってました。
主人、“一成“って書いて“いっせい“って読むんです。
同じ名前の若い先生なんだ、
いい先生なんだよって
よく松川先生のこと、話してくれてました。』
『じゃ、あなたは…』
『はい。早瀬です。
早瀬一成の家内で、アキと申します。』
『これでお互い、
“知らない人“じゃなくなりましたね。
安心して乗ってください。どちら方面ですか?』
『じゃ、お言葉に甘えて、
条善寺坂の方へ、お願いします。』
…車の中では、
道順以外の会話はほとんどなかった。
彼女は窓の外を見て
思いにふけっていたし、
俺も、何を話していいか
わからなかったから。
たまたま車の中でかけていた音楽が
ノラジョーンズでよかった、と
思ったのを覚えている。
その場の空気を静かに保ってくれる、
やさしい歌声だった。