第10章 ・利き手の話
ある休日のことだ。母も祖母も外に出て不在、練習から帰ってきた若利と文緒の義兄妹が2人きりで夕食にしていた時である。
「あれ。」
醤油差しを傾けた文緒が呟いた。中身が出てこないらしい。
「もしかして。」
言って文緒は瀬戸物の醤油差しの栓に指をかける。左に回して開けにかかるその手を見て若利はそれがいつも文緒が使っている方と違うことに気がついた。
「お前、」
思わず呟いていた。
「利き手はそっちだったか。」
「いいえ兄様、私の利き手はこっちです。」
文緒は首を横に振って一度醤油差しを置き、利き手をひらひらと振る。
「では何故。」
「どういう訳か逆でやった方がやりやすい時がありまして。あと、ごく簡単な作業でも利き手が何か痛いと思った時はこうなります。」
「そうか。」
変わった奴だなと若利は思う。少なくとも自分の周りにはわざわざ利き手でない方を使おうとするタイプはいない。当の文緒は醤油差しの中を覗いてああ、と呟いている。
「切れてる。入れてきますね。」
一度席を立ち、文緒は醤油差しを持って台所へと行ってしまった。ぽつんと残された若利は考えこむ。今更だがもしかして俺は変わった妹をもらってしまったのか、いや癖の強い奴などそう珍しくはないか、自分のチームにだっているのだし。珍しく細かいことを考える若利の様子はなかなか面白い。
「お待たせしました。」
やがて文緒が戻ってきた。
「兄様、どうかされましたか。」
若利が何やら妙な雰囲気を纏っている事を文緒は感知したらしい。しかし、
「あの、まさか妙な味付けになってましたか。」
「いやそうではない。」
確かに今日も文緒が料理した訳だが今まで妙なものを食わされた事はない。
「ではどこか汚れてましたか。」
「いやそうではない。」
「チームの方から急な連絡か謎の話題でも。」
「いやそうではない。」
「そうですか。」
何だか不思議な会話になっているが兄妹は気づかない。やがて若利が言った。
「謎の話題というのはおかしくないか。」
若利の遅すぎるかつやはり何か外れた突っ込みに文緒はさらりと答えた。