第5章 桜並木に包まれて
千里side
声……こえが聞こえる……。
愛しい声が……。
"千里!見て、桜よ!"
その時、声だけではなく、視界がぼんやりと浮かび上がり始めた。
ふわりとした朝顔の模様をあしらった着物が振り替えって揺れる。
自分とよく似た顔が、花が咲くような笑顔で笑った。
"千鶴、千里。転びますよ、気を付けなさい。"
柔らかい笑顔。
悲しいことにもう、ほとんど覚えていない母の顔。
そして、父の顔。
"いいじゃないか!子供なのだから。"
はしゃいでいる私たちを笑いながら追いかけてくる。
千里はこれが夢のなかだと知っていた。何度も繰り返し見ては涙を流してきたのだから。
そしていつも父の最後の言葉を反芻するのだ。
_______そう。私は子供だったのよ。
何も知らなくて、守られて、愛されて、ひだまりのなかにいる無知な子供だったのよ。
この頃の私には、この世の中にはびこる悪でさえも、遠い遠い世界のことだった。
真っ白な紙に描く、一面のお花畑は近くにあると信じていた。
平和な国だと。
それは、ただの虚像にすぎないとも知らずに。
無知は罪だ。
どこまでも。
気がついたら既に手の中には存在しない。
無くしたときにはじめて気がつく。
どれだけ自分が幸せと言うぬくもりに包まれていたか。
桜のはなのように純粋だったか。
雪のように無垢だったか。
幼くて、ただ幼くて。
ひ弱な子供でしかなくて。
姉上を守ると息巻いて。
何一つ守れなくて。
今でもはっきりとおぼえてる。
あの笑顔。
長い間笑うことを忘れた姉上が最期に見せた笑み。
もういいのよ。
そう聞こえた気がしたの。
必死に手を伸ばしたけれど、届かなかった。
所詮自分はただの愚かな人だった。
生きている価値なんか一粒たりともない。
体さえも穢れ、心も荒んだ。
着物の下に隠れた、白い肌に浮かび上がる火傷の跡、縫われた跡。
数々の男に廻され、数々の男を殺してきた。
何て空虚な世界なのだろう。
どうせなら……私を殺してほしかった。