第8章 欲
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秀星くんが出ていった後のトレーニングルーム。数分経っただけなのか、それとも何十分という時間が経ったのか、もう時間の感覚なんて麻痺している。でも、私の中に生まれた感情が、ほんの少しずつだけど、言葉に変わってきた。
――――少なくとも、私は秀星くんに引いてなんてない。ただ、私は、自分の無知が、どうしようもないレベルだって、自覚した。自分が無知であることに気付きもしなかった。いや、もしかしたら気付けるチャンスがあってもそれを素通りしてきた自分がいたんだと思う。それと、さっき秀星くんが――――秀星くんの眼が翳(かげ)ったことが、理由もよく分からないままに、ただ悲しかった。それよりも、秀星くんは、笑ってる方が、いいな。私は、秀星くんが、笑ってる方が、好き。
これが恋なのかなんて、それこそ全く分からないけれど、私は、秀星くんのことを、もっと知りたいって思う。あと、秀星くんには笑っていてほしい。
私の足は、考えるよりも先に、執行官隔離区画、執行官宿舎へと向かっていた。
(ここ、だったよ、ね。)
ほど近い距離にもかかわらず、私の息は、少しはずんでいた。緊張しているから?息も充分に整わないうちに、呼び鈴のボタンを押す。応答はない。代わりに少しの間があってから、扉が開いて、秀星くんが出てきた。
「どちら様で……」
秀星くんは、言いかけて、私の姿を見るや、キッチリ3秒固まった。そして、はぁ、と溜め息を吐いた。
「アンタ、帰んなくていいの?親とか兄弟とか、心配すんでしょ。」
「私、独り暮らしだから、大丈夫。」
「あ、いや、そういう問題じゃ……、まぁいいや。入る?」
秀星くんは、観念したような顔で私を見た。
「ううん、大丈夫。」
「いや、アンタが大丈夫でも、こんな時間に執行官宿舎の入り口前で話をするのは、流石にマズイって。」
言われるがままに、秀星くんの部屋に入る。そうだった、ここは、執行官の皆さんの部屋がずらりと並ぶ執行官宿舎。別に、騒ぐつもりは全くないけど、こんなところで立っているのは近所迷惑になりかねない。