第5章 名前
「綺麗な名前。」
その言葉は、思ったよりも抵抗なく、私の口から零れるように落ちた。
「……そぉ?縢、なんて、そんなにきれいな響きでもないと思うけど。」
「うん?上の名前もだけど、今言ったのは下の名前の方。」
恐らくは縢さんの両親がつけたであろう、名前。
「えー…………っと。」
縢さんは、明らかに反応に困っている。まずかっただろうか。でも、気を悪くしたりはしない、はず。
「だからさ、そういうふうに『人』から言われたこと無いから、どう反応していいか、分かんないんだって。」
はぁ、一度息を吐いてから紡ぎ出された縢さんの声には、多分いろいろな感情がくちゃぐちゃに混ぜ合わされたものがいっぱいに詰まっていて。その声は、僅かに震えているような、気がした。しかしそれも束の間。
「んじゃあさ、悠里ちゃんも俺のこと、下の名前で呼んでみるってのはどう?」
縢さんの口調は、またいつもの冗談めいた、軽いものに戻っていた。
「ほへ!?」
「ほへ!?じゃないでしょ。自分で言い出したんだから、それなりに責任取んなきゃね!ほらほら悠里ちゃん、秀星、って、呼んで呼んで?しゅ・う・せ・い、だよ?」
それはそれは、わざとらしく、あざとく。
「しゅ、う、……」
……続かない。人の名前って、こんなにも緊張して呼ぶものだったっけ?それに、わざわざ人の名前を意識して呼ぶことって少ないと思う。だからなのか、恥ずかしいし……。
「えー!?全っ然聞こえねぇし!ハイハイ、もういっか~い!」
ぐぬぬ……、縢さん、楽しんでる……。しかも、遊ばれてる感があるし……。仮にも、私の方が年上なのに……。
「しゅ、しゅう、せい、くん……」
やっとのことで最後まで呼べた名前は、私の想像よりもはるかに弱い音で、空気中へと送り出された。縢さんは、悪戯が成功した時のような表情で、くつくつと笑っていた。
「よくできました!んじゃ、これからはそれでヨロシク!」
ぽんぽん、と2、3度頭を撫でられて、ニカッと子どものように無邪気な笑顔を向けられると、もう何も言えなくなってしまう。もしかしたら、私はこの笑顔に弱いかもしれないなぁ、なんて、少しずつ冷静さを取り戻しつつある頭の中で、そんなことを考えていた。