第1章 はちみつが甘いから
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男性が店を後にし、私たちはポカンとしたまま顔を見合わせた。
それから、店長に電話することも考えたのだがもう一度電話をかけるのも忍びない。一応あの人には家庭があるわけで、小さいお子さんもいて自粛期間中きっと育児に疲れていることだろうし。(奥さんがちゃんとしたところで働いてるからね)
それにしても、その動かない懐中時計は不思議だった。
時計の知識がない私たちから見てもどこか「おかしい」ことは一目瞭然だった。
ないのだ、針が。
「あれですかね…時を止める的な」
「AVの見過ぎでしょ」
「違います~ドラ●もんですぅ~」
針がない時計なんてあるのか。
初めて見たその不可思議な懐中時計に、私たちは途方に暮れていた。
もしかしたら、針のない時計を珍しがったお客さんが買っていく可能性もあるけど、今こんなところに足を運ぶ人は少ない。
どうしたものかと、その時計の処理に迷っていると後輩が「フリマアプリで売っちゃいましょ!」なんて言い出したので、仕方なく今日のところは私が家に持って帰ることにした。
「絶対売れますよ~1000円ぐらいで」
「バカが」
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自宅に帰って来た私は、なんとなくあの懐中時計のことが頭から離れずに、まだ誰も帰って来ていないリビングで灯かりを点けることも忘れて時計を眺めていた。
窓から漏れるオレンジ色の夕日に照らされたそれは、針がないにも関わらず「カチ、カチ、カチ」とどこからか秒針が聞こえてくるようだった。
なんだか嫌な感じはしない。逆にどこか懐かしく心地いい。
本当は家に持って帰るつもりはなかった。
実を言うと後輩がフリマアプリで売りそうだったからというのは口実で、なんとなくこの時計を手放したくなかったのだ。
あんな不気味な男性が置いていったものだというのに、この懐中時計を持っているとそんなことはどうでもよくなっていた。
「だれ!?」
「ぎゃっ」
─────────パリンッ!
後ろから突然聞こえてきた声に、私はつい手に持っていた時計を手放してしまい、凄まじい音と共にガラスが床に砕け散った。
聞きなれた声、多分母親だ。
とっさに振り返ろうとして、目の前が真っ暗になっていることに気が付く。
あ、落ち─────
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