第9章 空けもの
(……いや、違う。)
今の私は、彼の心配など何一つしていない。私が心配しているのは自分のことだ。
いつも自分にだけ向けられている笑顔を、自分だけが感じられる彼の香りを、他の人に向けてほしくない。
外に出たら、彼が変わってしまいそうで、変わってほしくなくて。
「ちゃんと…絵夢が帰ってきた時には、おかえりって言ってあげるから。」
彼がいつもの優しそうな笑顔で、私を見つめる。その表情で肩の力が抜けていく。
『…うん、ごめん。なんか…口煩くなっちゃって。』
こんなに優しい彼だ。外で失敗することも、この優しさが消えることもないだろう。
「全然いいよ…むしろ、ちょっと嬉しかった。」
私の心配もよそに、そんなことをしれっと言う彼にはいつになっても勝てる気がしない。
話し終えたと判断した彼は、いつもより浮かれた足取りでキッチンへと向かった。
(…今度、こっそりバイト先覗いてみよう。)
かくして、彼のバイト人生はスタートした…
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のだが、
「ちょっ…!絵夢っ、お前!!」
『…へ?』
「床見ろっ、水浸しじゃねぇか!」
目線を下ろすと、全く水気を切っていないモップと歩くたび水音を立てる床が視界に映る。
『ああっ!!は、隼斗くん別のモップくださいっ…!』
「ったく…何ぼーっとしてんだよ。」
『すみません…。』
今日は彼の初出勤の日だ。遅刻はしていないだろうか、何か不手際を起こしていないだろうか、心配事が尽きることはない。
しかし、それで私が失態をおかしていては、元も子もない。
「なんか今日様子おかしくね?熱でもあんのか?」
そう言って、荒っぽく私の額に手を伸ばす。彼とは少し違う、大きくて骨張った手が私に触れる。
「んー…熱は…ないか。気分悪かったりしないか?」
兄気質な彼は、よく私の心配をしてくれる。しかし、今回ばかりは申し訳ないと思う。
同居している男の子のバイトが心配で仕事に身が入りません、などと言えるはずもない。
『すみません…もう大丈夫なので、仕事続けます。』
「全然大丈夫そうに見えない顔で言われてもなぁ。」
確かに、まだ完全に頭が切り替えられたというわけではないが、これ以上お店に迷惑をかけるわけにはいかない。そう考えれば考えるほど、眉間に皺がよっていく。