第40章 疑心または月夜にて
風なんて吹いていないのに、いや、だからこそなのか。
大気は、生温かい鉄の匂いをはらんで静止していた。
嫌になるくらい記憶どおりの曇り空が、その色を鮮やかに強調する。
……撃ったの?
アスファルトをゆっくり濡らしていく“赤”に、一番目を背けたい問いが頭をもたげた。
寄りかかる体が、熱を失っていくかわりに重さを増していく。
――マシューは、どうして、
理解できない風景に、脳から思考能力が抜け落ちていく。
――どうして、笑っているの?
キンッ!
金属が泣く音と吹き飛ぶ銃が、最初の変化だった。
背後にいたアーサーだ。
短剣の柄を投げ、マシューの手から銃を弾き落としたらしい。
マシューはふらつき、したたかに打ちすえられた右手の甲をおさえている。
足音だけを残してアーサーがうしろから躍りでた。
駆けた勢いそのままにマシューにとびかかり、殴るように地面へ押し倒す。
まともに頭を地面へ打ちつけたマシューの眉間に、容赦なく照準を合わせた。
「お前は誰だ」
こぼれ出た言葉は、美しいとすらいえる身のこなしと比べると、陳腐だった。
しかし、アーサーの瞳が全てを物語っていた。
いつもは鮮やかなグリーンが、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたように濁り、沸騰している。
その言葉が懸命な逃避だということを、ぼんやり理解した。
頭が痺れ、思考があやふやになっていく。
膝にざり、とした感覚が伝わり、いつの間に膝をついていたことがわかった。
ひどい耳鳴りがする。
閉じていく目蓋のすきまから、世界が映る。
誰もいないはずの街で、深海の眼が笑った気がした。