第14章 capriccioso(澤村大地)
9月5日 (金)
インターホンを押すと、彼女が出てきた。17歳の瑞々しい笑顔だ。
「おはよ、大地」
「おはよう、なまえ」
挨拶を交わして、いつものように並んで歩き出す。すぐになまえが、「あっ」と叫んで立ち止まった。
「秋の空気だね!」
人差し指を青空に向けてそう言った。
言われてみれば、空がぐんと高くなり、空気が少し張り詰めている。
「私、中学の頃から外で基礎練してたからさ、季節が変わるとすぐわかるの」
なまえは清々しそうな顔をしていた。
その横顔を見て、よかった。と大地は目を細めた。復活したんだな、よかった。
「夏が終わったんだね」
囁くような声が聞こえた。「ねぇ、大地」
「なんだ?」
「最後のフェルマータを吹くときの気持ちって、わかる?」
「ふぇる......え?」
「音を長く伸ばす音楽記号だよ」
なまえは青空に下向きの半円と、その下に点を描いた。
楽譜の最後の音を吹く。高校3年間で、最後の音。
もうこのメンバーでステージに登ることはない。同じ瞬間は一生訪れない。
ありったけの想いを込めて、息を吹き込む。完全5度の和音が響く。
莉里香はあの日を思い出しながら、指揮者のように右手を青空に向けた。
天高く掲げて、やがてくるりと円を描く。
音が止まり、残響が客席の上を走り去る。
一瞬の沈黙のあと、沸き上がる拍手と歓声。
「私たち、まだまだ下手だったのかもしれないけどさ、」
なまえは幸せそうに笑った。「けどさ、世界で一番の演奏をしたと思うよ!」
大地はそんな彼女を見て、いいな、と思った。
俺が引退するときは、負けるか全国1位のどちらかしかない。
それが運動部の宿命だ。
俺も、なまえみたいに笑えるのかな。
負けたけど、最高のプレーをしたよな、って。
そんなこと言えた試しがないし、言える自信もない。
青空を見上げた。雲が薄く広がっている。
最後のボールが床に落ちる瞬間、どんなことを思うんだろう。
どんな日々にもいつか終わりは来る。
半年後には、なまえと学校へ行く日々も終わる。
そのとき、俺はどんなことを思うんだろう。
答えは当然見つからなくて、冷たい風が袖口を過ぎていく。
夏が終わったのだ、と思った。
END