ヤマネコ-ノ-ツガイ【アッシュ】BANANAFISH
第14章 消えない傷
《クリスside》
えっ…?
「…おとう、と?」
「ケリー、ちょっと待ってて」
ダリウスは、放心する俺の肩を抱いて女から距離をとった。
「…ク、クリス…ごめん、約束は今日だったっけ?」
「……あの人は、だれ?」
「違うんだクリス、あの子は大学の友達で…共同の課題があるからこれから家で一緒にやらなくちゃいけなくて…変な関係じゃ、ないんだよ」
俺はあの人は誰かと聞いただけなのに、言い訳めいた言葉を必死に並べられた。
俺はまだ全部把握しきれていなかった。
明らかに動揺しているダリウスの言葉をどこかで信じようとしている自分もいた。
でも、この心臓の嫌な動きは普通のものじゃなかった。俺の本能は、理解っていたんだ。
俺からは責める言葉も怒る言葉も出てこなかった。
ぼくとの約束を忘れていたの?
どうしてその人と腕を組んでいたの?
ぼくは今日誕生日なんだよ…?
ぼくはダリウスの弟じゃないよ
ぼくはダリウスの、恋人じゃないの?
心ではこんなに色んな言葉がせめぎあっているのに。ただのひとつも出てこなかった。
俺は無言で女の元に歩き始めた。ダリウスが必死に俺の後ろから名前を呼んでいる。大丈夫、安心してよ…俺はダリウスが不利になるようなことを何も言えやしないんだから…。
「ばいばい、…“お兄ちゃん”」
俺は走った。泣きながら走った。
あの女からはいい匂いがした。
鼻がその匂いでいっぱいになって吐き気がした。
ダリウス…大好きなダリウス…
ありのままの俺を好きだと言ってくれたきみはどこへ行ってしまったの。
それでも、俺はまだ…ダリウスのあの子は友達だ、という見え見えの嘘を信じていたかった。
これは悪い夢だ。
全部夢だ。
明日になれば醒める。
ダリウスは俺と神を裏切ってくれた恋人なのだから。