第90章 生離死絶(せいりしぜつ)
だが、そこまで思い至り、土御門が領域の外にまで意識を向けたときには、すでに遅かった。緋紅の声が上がったあと、数秒もしないうちに、大量の虫の羽音が領域の周辺に満ちていった。それは黒い奔流のようになって一気に領域に内に流れ込んでくる。
「これは!?」
「な・・・なんなんですかあ!」
「クソ!虫か!?」
それは無数のバッタだった。シラクモは天乙貴人の領域外から、群生体のバッタを数万と呼び出し、その領域内に向かって飛ばしたのだ。天乙貴人は確かに『呪的現象』は打ち消すことができるが、いったん神宝・虫肩巾(むしのひれ)によって呼び出されたバッタ自体には、何の呪的属性がない。それらはただ本能のままに周囲を飛び回るだけである。もちろん、虫肩巾によって操ることはできないが、今の『撹乱』という目的においては、数万のバッタが飛び交うだけで十分な効果があった。
そして、突如として現れた大量のバッタが、陰陽師たちに起こした一瞬の混乱が彼らにとって命取りとなった。
ここで、更に陰陽寮側の誰もが予想しなかった事が起こることになる。
麻衣が、宙空に足を踏み出したのだ。
「麻衣ちゃん!」
建物の中から巫女服の袖が見えた。おそらく異常に気づいた大鹿島が麻衣の部屋に駆けつけ、麻衣が落ちるのを防ごうとしたのだ。しかし、その手は一歩間に合わず、麻衣の身体は宙に踊った。
「天乙貴人!」
土御門が声を上げる。それに呼応して、天乙貴人が振り返り、落ちる麻衣を受け止めるべく滑るように移動した。しかし、麻衣の身体は落下の途上で黒い空間のゆらぎのようなものに包まれていってしまう。
ーまさか!
土御門の背筋に怖気が走る。
まずい・・・まずいで!
「はーっははは!最後の最後で僕の・・・僕の勝ちだ!」
貴人の力を麻衣に・・・と思った時はもう遅かった。呪的現象完全支配の能力が及ぶ前に、麻衣は鬼道に飲まれて消えてしまった。
「クソ!」
土御門が舌打ちをし、もう一度振り返ったときには、虫たちはすでにまばらになっていた。
そして、そこにはもう緋紅の姿はなく、ポタポタと滴り落ちる血の雫だけが森の奥へと続いていっているのが見えるのみだった。