第1章 夜のまほろば1
薄暗いスタジオの一角で、みそらはヘッドホンを外し、ため息をついた。今日のレコーディングはうまくいかない。何度歌い直しても、心に響くものがなかった。
「ちょっと休憩しようか」
優しい声がして、顔を上げると米津玄師さんが立っていた。彼もまた、どこか疲れた表情をしていた。いつもはクールな彼が、珍しく少しだけ眉を下げている。その横顔に、みそらは思わず見とれてしまう。彼の音楽に魅せられて、この世界に飛び込んだ。そして今、こうして彼と同じ空間で音楽を作っている。それは夢のような時間のはずなのに、現実は厳しかった。
「歌詞が、うまくハマらなくて」
みそらは正直に打ち明けた。今回の楽曲は、彼が作詞作曲を手がけ、みそらが歌うことになっていた。彼の創り出す世界観を表現できるか、プレッシャーを感じていた。
彼はみそらの隣にそっと腰を下ろすと、手に持っていたコーヒーを差し出した。
「これ、よかったら。気分転換に」
温かいカップを受け取ると、ふわりとコーヒーの香りが漂った。一口飲むと、ほっとする甘さが口の中に広がった。
「ありがとう、ございます…」
「どういたしまして。…歌詞、僕も悩んだんだ。でも、君の声で歌われることを想像したら、自然と溢れてきたんだ」
彼の言葉に、みそらの心臓がドクンと鳴った。彼の言葉が、こんなにも直接響いてくるなんて。
「僕の世界観に囚われなくていい。君が感じたままに歌ってほしいんだ。それが、この曲の完成形だから」
彼の真っ直ぐな瞳が、みそらを射抜く。その言葉は、まるで魔法のようにみそらの心を解き放った。張り詰めていた心が、ふわりと軽くなる。
「私…、もう一度、歌ってみます」
みそらは立ち上がり、再びマイクの前に立った。ヘッドホンを装着し、目を閉じる。
(私の感じたままに…)
イントロが流れ出すと、先ほどまで閉ざされていた扉がゆっくりと開いていく感覚があった。歌詞の一つ一つが、みそらの心と共鳴し、感情が溢れ出す。声に、魂が宿っていく。
歌い終えると、スタジオには静寂が訪れた。みそらはゆっくりと目を開ける。
米津さんが、じっとこちらを見ていた。その表情は、先ほどまでの疲れを微塵も感じさせず、まるで夜空に輝く星のように、静かで、そして深い光を宿していた。