第807章 紫陽花の君
梅雨入りし空はどんよりと鉛色だ。
朝の珈琲を飲みながら窓の外を眺めた。
「今日も降りだしそうだ…」
最近は空梅雨になることも多いが、今年はそれなりに雨は降っている。
梅雨の時期になると思い出す。
「…貴女は雨が好きだったね」
もう十年以上も経つのに忘れた事がない。
いや、忘れようにも忘れられない。
あの日も雨の中、貴女は紫陽花を見ていた。
そんな貴女に目を奪われた。
しかしその時は、綺麗な人だと思っただけだった。
どこの誰かも知らず、また会えるとも思っていなかった。
再会したのは、あの震災の時だ。
街が崩れ、炎が暴れ、水が襲い掛かり、沢山の人が亡くなった。
命からがら避難所に逃げ込んだ。
「…お怪我はないですか?」
「えぇ、大丈夫……、です」
避難所で声を掛けてくれたのが彼女だった。
まさかこんな形で会うことになるとは思わなかった。
彼女は看護士でボランティアとして対応していた。
長い避難生活の中で毎日顔を合わし、会話をするうちに私と彼女は親密となり、お互い掛け替えのない存在となった。
「私、雨が好きなのよね
変わってるでしょ?」
梅雨に入った時にそういって笑った。
「…雨上がりの虹は好きだけど、梅雨はじめじめしてるから好きじゃないな」
私は苦笑いになった。
「梅雨も紫陽花が咲くから私は好きよ
それに…、ちょっと外に出ない?」
彼女は私の手を引いて避難所の外に出た。
「ほら!
梅雨でも夕方晴れれば虹も見えるのよ」
東の空に7色の橋が掛かっていた。
「…今でも…雨は好きよ」
貴女はトーストを食べながら、カップに珈琲を注いだ。
「雨が降りだしたらデートしようか?」
「今更何言ってるのよ…
…そうね、虹が出たらデートしてあげる!」
そういって笑う貴女は、昔のままだ。
end