第594章 空へ舞う
私はタンポポの花より綿毛の様な種が好きだ。
風に吹かれ、空に舞い上がり、新しい土地に移っていく。
風の向くまま、気の向くまま…。
これまでそんな生き方をしてきた。
これからもそんな生き方をするつもりでいた。
あの人と出逢うまでは…。
人生何度目かの引っ越し先の街、その人は自転車に乗って来た。
「あら?お隣さん?」
自転車を降りて、隣の部屋のドアを開けた。
「どうも…今日引っ越して…」
「ちょっと待っててね…」
そう言うと買い物袋を部屋の中に置いてからまた出てきた。
「隣の竹内です」
その人は真っ直ぐに私の目を見て挨拶してくれた。
「あ…引っ越してきた波多野です」
思わず目を逸らしてしまった。
その真っ直ぐな瞳は今の私には耐えられなかった。
これまで何軒もアパートを変えたが、隣人の名前も顔も知らないうちに引っ越す事ばかりで、まともに挨拶を交わす事などなかった。
しかし、その人とは何度も挨拶を交わし、長い会話をする事もしばしば…。
その人は私より確実に歳上だと思うが、その表情は可愛らしいと言って良い。
こんなに胸がときめくのは何年ぶりだろうか?
その人と話していると、時の経つのも忘れてしまう。
明るく、しっかり者で、人に優しく、その柔らかい表情はまるでタンポポの様な素敵な人だった…。
…花の命は儚く短い。
あの人は突然、綿毛の種の様に飛んで逝ってしまった。
持病があるとは言っていたけど…。
まさかこんなに時間が無いとは思わなかった。
私はタンポポの花より綿毛の様な種が好きだ。
風の向くまま、気の向くまま…。
end