第1章 【織田軍】プロローグ/盃に月を映せば【丹羽長秀】
―瀬那に刀傷を付けたのは、信長様だった。
「先の戦の時か?」
と訪ねると瀬那は遠慮がちに、こくんと頷いた。
あの日、予想以上に苦戦を強いられた戦。
光秀と勝家の主戦力二人を欠き、悪天候という条件が重なっていたのは確かだが…。
奇襲を受けた時は、俺と蘭丸だけでも迎撃には十分で、容易に抑え込めると思っていた。
だが、敵の周到な手筈と視界の悪さも相まって、思い通りの布陣を展開できず、信長様を出陣させる羽目になった上に撤退を余儀なくされた、なんとも後味の悪い戦だった。
俺は別部隊だったため実際に覚醒した信長様を見たわけではなかったが、事実上の敗戦だった戦の後だというのに、蘭丸が信長様がかっこよくて素敵だったとやけにはしゃいでいたことが、勘に障った記憶があった。
(…つまり、そういうことか。)
瀬那の血に頼った信長様のお力があって、あの時俺も本陣へ合流できていたということか。
自分の力不足を知ると同時に、我が主君である信長様の私欲の一面を垣間見てしまい、何よりこの白く柔らかな胸元に噛みついた俺以外の男がいることに、ひどく妬けた。
『私がお役に立てるのは、この血だけですから。』
ぽつりと、溢した言葉は月夜に吸い込まれて消えていった。
やけに投げやりで、ひどく自嘲的な響きだったが、瀬那はこちらを一瞥して、
『けれど、あの時、長秀さんが無事に本陣にお戻りになられて、私、嬉しかったんですよ。少しは長秀さんのお役にも立てたのかなって。…なんて、おこがましいですね。』
頬を薄桃色に染めて
『やっぱり酔ってるのかも。おしゃべりが過ぎました。
ごめんなさい。今のは忘れてください。』
と儚げに笑った。
今、なんと言った?
役に立てるのは血だけ?
俺の役に立てた…だと?
乱れた襟元をなおそうとして襟に添えられた細い手首を掴むと、すぐに折れてしまいそうなほどに華奢だった。
「待て。今のは、聞き流せないな。」
『っ……。』
そのまま見据えていると、瀬那の長い睫毛が震えた。
なんともいじらしくて、愛しさが込み上げてきて、そっと俺の中に、情炎の火を灯した。