第60章 短い話
沈黙。
かつてこんなことがあっただろうか。なぜお喋りの彼が黙りこくっているのだろうか。
「あの」
短く、声をかけた。
長く延びた綺麗な髪が風に揺れた。その風さえ生温いこの梅雨に、彼の背中を覆う髪を見てはうんざりしてしまう。
「…………」
やはり何も答えない。
クーラーが壊れたという演劇部の部室に、アイスの差し入れを持ってきたのに受け取りもしない。
ちなみに真白くんは、『もう嫌だああああ!!』とか何とか言ってフリフリのドレスをひらめかせながらどこかへ走り去って私と入れ違いになった。
そして北斗くんは哀れな後輩を連れ戻しに出掛けてしまった。
「アイス、置いていきますね」
こんなこともあるんだなあと勝手に納得し、アイスを演劇部の小物として使われる小さなちゃぶ台に置いた。
換気のために開けていた窓の外からザアザアと音がする。
梅雨の今、すっかり見慣れた雨だが見る度に憂鬱になる。
「閉めましょうか」
私は窓に向かって動きだした。日々樹先輩もようやく動いて、黙って窓を閉めた。
「閉めきると、暑いですね」
「……………………」
もはや相槌もない。ひょっとしたら虫の居所が悪いのかもしれない。なら早く退出した方が………。
「あんずさん」
と、思ったがいつになく低い声でそう言われて思わずビクッとなった。
一体何を言われるのだろう、とドキドキしていたら彼は気まずそうに言った。
「ボタン、開いてます」
「え」
視線を下に下げてようやく納得した。
いつもは一番上まで閉めるのだが、アイスを買うときに暑かったし誰も見てないからとボタンを二つ開けていた。
シャツの中に着ている物が、ギリギリ見えるか見えないかぐらい。
「それで黙ってたんですね?」
「…………悪いですか」
先輩はどこか顔を赤くして、髪をサラリと払った。
暑いですね、なんて今更なことを言いながらまるで何かを隠すように窓の外を見た。
私はボタンを閉めながら、同じく窓に目を向けた。
「紫陽花も散っちゃいますね」
「………」
再び黙った先輩を不審に思い、そちらを見ると彼は花を撒き散らしていた。
いつもの薔薇ではなく、色とりどりの紫陽花。
「まだまだ、これからですよ。」
先輩はそう言って、いつものように私に笑った。