第11章 人間万事塞翁が馬
「……無理、のようです。……歴史、という奴は……僕を、これ以上……生かしてはくれないらしい」
沖田さんの瞳から、急速に光が失われていきました。
私は呼吸をするのも忘れ、その場から動けなくなっていました。
仁が救った龍馬、そして中岡。彼らの命が繋がれた引き換えに、歴史は「沖田総司」という不世出の天才剣士の命を、強引に奪い取ろうとしている。
「……桜子さん……」
沖田さんの血に染まった手が、私の髪の簪に触れようとして、虚空を彷徨いました。
「……その簪……似合って……います……よ……」
「沖田さん……嫌、嫌です! 先生、助けて! 先生!!」
私の絶叫が響く中、仁先生が中岡さんの処置を終えて駆け寄りました。しかし、仁先生の顔は、かつてないほどの絶望に染まっていました。
「……血圧が……測れない。心音が、遠ざかっていく……。どうしてだ……傷はないのに……これじゃあ、まるで……」
「……おじいちゃん……」
「……歴史そのものが、彼を消そうとしている……」
近江屋の屋根を叩く雨音が、まるで弔いの鐘のように激しくなる。
龍馬の命を救った代償。それは、桜子にとって最も残酷な、愛する人の喪失という結末。
「……桜子、さん……。笑って……。君の……笑顔、が……好き、だった……」
沖田総司の手が、力なく畳に落ちました。
慶応三年十一月十五日。
坂本龍馬が生き延びたこの夜。
一人の剣士が、歴史の身代わりとなるように、静かに、けれど誇り高く、その生涯を閉じた。