第1章 寝癖

　＝インソムニア＝

最近、背後からの視線を感じる事がある。
それも決まって、夕餉も湯浴みも終わり、晩酌をしようかどうしようか、と迷う頃。
その視線からは、敵意や危険は感じられず。
むしろ自分に寄せられる温もりや好意を強く感じられ、心地が良いから敢えて放っている。

視線の主も、隠れているつもりなのだ…恐らくは。



(…今日もいるな)


柱に身を潜めているつもりらしい、彼女の視線を感じながら。
俺はくい、と盃を傾けた。
今宵の月は見事だ。
彼女と酒を酌み交わしながら見れば、尚のことだろう。
声をかけたいが、彼女は隠れているつもりらしいからそれもどうなのか、と思案する…


そんな事を考えながら、ふと振り返ってみると。
柱からほんの少しだけ顔を出していた、彼女とばっちり目が合ってしまう。
彼女はさっと身を隠した、けれど。
暫くするとバツの悪そうな、何やら不満げな顔ですごすごと此方にやって来て、すとん、と腰を下ろした。



「どうしたんだい？

何やら、ご機嫌斜めの様だ」


「…バレてしまいました。折角忍んでいたのに」



佐助に何か影響されたかな、なんて考えながら。
彼女にも盃と羊羹を一切れやると、有難うございます、と受け取った。
手渡した瞬間、ずきり、と僅かに胸が痛み。
彼女から顔を背け、幾度か咳き込む。




「信玄様が、寝付かれるのを待ってました」



咳が漸く収まった頃、彼女へと向き直ると。
唐突に、そんな言葉をかけられる。
きょとん、とする俺に、彼女は心配げに眉を顰め、話を続ける。


「最近、その様に咳き込まれることが増えたでしょう？

なのに、ちっとも政務を休んだりされないし…
信玄様が眠っておられるところを見たことが無いから、心配になったのです」



つん、と唇を尖らせて。
その実、愛らしい言葉に笑いを禁じえず。
つい吹き出す俺を、彼女は小さく睨む…そんな表情にすら、魅了される。



「眠る所を見たことが無いのは、君が同じ褥で寝てくれないからだろう。

…そうだ、朝まで共に居れば、安心できるんじゃないか？」


言葉を詰まらせ、真っ赤になりながら。
今夜こそは信玄様が眠くなるまで、呑みながら見張ることにします！なんて…


本気になってはいけないのに、と。
この気持ちごとぐい、と酒を煽る――
今宵も長くなりそうだ、と覚悟しながら。