第32章 キューピッドは語る Side:H <豊臣秀吉>
「…しまった」
つい口に出た言葉を聞いて、毛づくろいをしていたウリが顔を上げ、小首を傾げて俺を見ている。
気持ちを切り替え、紫煙をくゆらせながら仕事に集中していた俺は、信長様への報告事項があったことをすっかり失念していた。
くそ、俺としたことが。
がばりと立ち上がり、机上のウリの頭を一撫でしてから、出来る限りの速足で御殿を出る。
「早くしねえと、夜になるな…」
仕事に集中していたせいで、陽の高さなど気にしていなかったが、外はもうすっかり茜色の空に覆われている。
ああ、そうだ。先に三成の様子を見に行ってやろう。
城の書庫に例のごとく籠ってるだろう、あいつはたまに様子を見てやらねえと、寝食そっちのけで仕事してるからな。
「三成、いるか?入るぞ」
「……」
案の定、だ。三成の奴、眼鏡をかけた難しい顔のまま、ぴくりとも動かずに書面とにらめっこしてやがる。
俺が入ってきたことにも当然気が付いていない…いつも思うが、本当にすごい集中力だよな。
「おい、三成」
「はっ…あ、秀吉様。申し訳ありません」
肩を揺さぶってやって初めて、三成はそこに人がいることに気が付いたようだった。
「お前、いつからそうしてんだ。飯はいつ食った?」
「えっと…書庫に入って来たのが夕食後でした。そこからまだ、何も口にしておりません」
夕食?夕食…って昨日、だよな。この言い方だとこいつ、寝てないのか。視線を巡らせれば、用意してくれたのであろう朝だか昼だかわからない食事が、もったいなくも片隅で干からびている。
「もうそろそろ、次の夕食食おうかって時間だぞ」
「道理で…お腹が空いていると思いました」
屈託ない笑顔が俺に向けられる。後でこいつに食事を用意してやらなきゃな…。
「後で飯持って来てやるからな。仕事、終わりそうか?」
「はい、明日まではかからないかと」
「明日していいから、寝ろ」
「はあ…」
寝ないですれば終わるのに、って顔をしてるぞ、お前。よし、後で引きずってでも御殿に連れて帰って、寝かせる。