第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
「さみー…」
町屋敷の塀にもたれて呟いた幸村の言葉は、高く澄んだ青空に溶けていく。冷たくて気持ちがいい、と思っていた空気が次第に嫌になって来て、幸村は腕を組んだ。
人の気配を感じて、顔を右へ向ければ。待ち人がとぼとぼとした足取りでこちらへと向かってくる。その姿に思わず苦笑を零して。
「なんて顔してんだよ」
「幸村…」
様々な感情が頭の中を入り乱れて、どうしたらいいのか分からない。それが桜の顔にありありと浮かんでいて。幸村はどうしてやろうかと一人思案する。
「泣きたきゃ泣いとけ」
「…え?」
「世話になった奴らと離れがたいんだろ。泣けよ、俺は見てねーから」
幸村は桜の方を見ないようにぼそぼそと言葉を口にする。
「その代わり、春日山では笑ってろ。謙信様の横で、いつもの馬鹿みたいな笑顔浮かべてりゃ、安土の奴らも安心するだろ」
「あの…私…」
涙を流すでもなく、幸村の口の悪さに文句を言うわけでもなく言い淀む桜に疑問を抱いて顔を上げれば、その表情に言いたい事が分かってしまった。
「あー…俺に返事は、いらねー。もう分かってる」
「…幸村に、ひどいことしたよね。ごめんなさい」
「謝んな。俺が可哀想な奴みたいじゃねえか」
ムッとしてみせるけれど、桜の顔はまだ申し訳なさそうに眉が下がったままだ。幸村は小さく息をついて、尊大にふんぞり返る。
「ま、お前が謙信様に愛想つかされた時には、仕方ねーから俺が貰ってやるよ」
「そんなことにはならないよ!」
「せいぜい頑張れよ」
やっと明るくなった桜の顔に満足をして。幸村は清々しい気持ちで笑った。
謙信の横にいる桜が幸せに笑っていれば、それでいい。
「待たせたな」
「おー…やっと来たな」
桜の背後からぬっと現れたのは、政宗と秀吉だ。一応追いかけて来た体裁を取ってはいるけれど、待ち合わせに遅れて来たような、なんとも奇妙な事態になっている。
「こいつがまきびし踏んづけて遅れたんだ」
「ああ、あれは地味に痛かった」
「慌てすぎなんだよ」
声を上げて笑う政宗と、バツが悪そうに頭をかく秀吉のいつも通りの姿に、桜の目頭が熱くなっていく。