第27章 それゆけ、謙信様!*愛惜編*
始めはただ、自分を怖がり怯えていた女の笑顔が見たいと、そう思っただけだった。
無邪気な子どものような平和な笑顔。それがふとした瞬間に自分へ向いた時、謙信の中に封印していたはずの感情が芽生えだしていたことに、自身が自覚していなかった。
偶然が招いた丘での逢瀬が、既に謙信にとって誤算であった。本来なら即座に追い払っていたはずなのに、背中合わせの会話に居心地の良さを感じてしまった。
不覚だった。
小さく舌打ちをする謙信は、灯りもつけていない部屋の中で一人、壁にもたれて今日の事を思い返していた。
まさかこの雨の中、丘へは来るまい。
けれど、そう。
退屈で仕方なかったから、謙信は外へ出た。少しだけ空の様子でも眺めようとして。
目の前で躓いたその体に反射的に腕を伸ばせば、驚くほど軽かった。何度目かになる邂逅は、本当に偶然なのだろうか。
招き入れた屋敷の中。自分を見る桜の目に浮かぶ熱に漸く気が付いて、自分の中の感情にもぴったりと蓋をする。
本当に大切な物など、俺には必要ない。
そんな物を持っているから、失う時のことを考えなくてはならなくなる。恐れなくてはならなくなる。
昔、大事な物を失ってから、謙信は身一つで生きて来た。戦に出て、死を隣に感じながら駆ける。己の血の巡りが、生を叫ぶ。
そこにあるのは、ただ己の生死のみ。余計な感情など存在しない。
笑っていればいい。
女は苦労をするべきではない。安寧の中で、ただ楽しそうに笑っていればいいのだ。
もし戦に行く男に恋などしようものなら、女はその無事を祈り、不安に顔を曇らせるだろう。それどころか、女にも危険が及ぶかもしれない。守り切れるはずもないのに、手元に置くなど愚の骨頂。
もしそれでも手元に置くと言うのなら、外からも中からも錠を掛け、閉じ込めておくくらいの覚悟がいる。
これでいい。
桜に貸した手ぬぐい。残されていたそれを握り、謙信は自嘲気味に笑う。
去り際に見せた、桜の姿。唇を噛み、目も合わせないまま出ていくその姿が、謙信の心にいつまでも棘を刺し続けていた。