第12章 唯-小鳥遊正嗣-
その日は朝からしとしとと降りやまぬ雨で、街は昼でも霞に包まれるような薄闇に覆われていた。
「○○?」
少女の気配に気づいて廊下に出た正嗣は、珍しく裏口から現れ、庭先に佇むその姿に瞬いた。
昼の日中だが、薄暗がりのようなこの景色は、まるであの夜の再現のようで。
雨に濡れた少女は、泣いているわけではないはずなのに、頬を濡らす滴が、やはりあの夜を彷彿とさせて、正嗣の胸を騒がせるが。
(覚えているはずがない)
簡単な暗示ではあったが、○○には、あの夜は何もなかったという偽りの記憶を刷り込んだ。
そうして○○は『あの夜』を忘れ、何事もなかったように、今も『友人』として過ごしている。
もちろん、暗示は永続的なものではない。
だが暗示は未だ有効だと、正嗣は思っていた。
事実、ほんの数日前まで、彼女は『あの夜』のことを忘却しているようだったし、その言動にも、何かを思い出しているような節は見受けられなった。
だから今日も、常と変らぬ風情で正嗣は告げた。
「中にお入り。そこにいては風邪をひいてしまう」
しかし、そんな正嗣の目前で、○○は片腕で自分を抱き締めるように力を込めた。
「あの時の私も、他の女性客みたいに?」
ぽつり、と○○が零した途端、目の前で彼が息を呑むのが分かる。
途端、○○は眉間を寄せた。
(私…何言ってるの)
そもそも、こんなことを言う為に来たわけではない。
けれど、では何故来たのか、何を言いに来たのかと問われたら、○○は自分でもよく分からなかった。
あの日のことを思い出して…そうしたら、ここに足が向いていた。
それはまるで…あの夜の再現のように。
あの夜と異なるとしたら、その心持ち…だろうか。
あの夜の自分はどうしようもなく不安定で、どうしたら良いのかすら見えなくなっていた。
今もそれほど成長できたなどとは思っていないが、あの頃よりはマシになったと思いたい。
少なくとも、式神を失った痛みと衝撃に、誰かに縋りつかなければ立ち直れないような、そんな自分ではもはやない、と思う。
僅かの逡巡の後、○○は改めて彼を見た。
(あんなことになったのは、私が弱かったから)
彼は、ぼろぼろだった自分を慰めてくれたに過ぎない。
魔声を用いて、心の痛みを和らげてくれた。