第10章 標的捕捉-諜報部隊・隊長-
彼女の声を聴くだけで、時には、からかう振りでちょっと触れるだけで、心は凪いでくれるのに。
「今夜は…駄目だ」
「隊長さん?」
「違う」
「え?」
「俺の名は……」
初めて知らされる男の名を、しかし○○が理解するより早く、濡れそぼった身体は男の腕に抱き上げられていた。
「た、たいちょ…んっ」
ちゅ、と刹那、唇を重ねられて、○○の呼吸が一瞬停止しそうになる。
その様を見下ろしながら、男は、つい先刻まで抱えていた暗鬱を払拭するように、す、と目を細めた。
「違うだろ」
「………?っ!」
○○がきょとん、としていると、今度は頬に熱が灯る。
呼吸困難寸前の○○に苦笑しながら、最後通牒を突きつけるように、男は○○の耳朶へと吹き込んだ。
「今なら逃げられるぞ」
「…………」
「術でも式でも使えば良い。陰陽師殿」
「たい…ちょ…さ……?」
とうに癖になっているのだろう、相変わらず目の前の男を『隊長さん』と呼ぶ少女に薄く笑った。
「逃がしてやれるのは、今だけだ」
この…僅かの間だけ……。
だから嫌なら…拒むのなら……。
今だけだ…と、最後にもう一度告げる男の意図するものを、○○は果たして何処まで理解したろうか。
しかし、寒さとは異なる震えを纏いながらも逃げようとはしない○○に、男は少女の意思の一端を見る。
陰陽師と…諜報員、というよりは暗殺者紛いな男という、普通ではない自分達……。
だが、皆と同じ人間だ。
慈しんで…愛おしみたいという気持ちは、等しくある。
いつしか忘れ、諦めていたそれを、この少女が思い出させてくれた。
そうして取り戻した全てが向かう先は…もはや考えるべくもない。
腕の中に収まったまま逃げない少女をしっかりと抱いて、男はえも言われぬ艶を宿した紅の双眸を細めた。
「時間切れだ。もう…逃がさない」